June 09, 2007
ウズベキスタンへ行ってから、早いものでもう8ヶ月以上経ちました。
やっと旅行記も完成?し、一区切りついた気がします。
最後にちょっとまとめをしようと思います。
私は旅行会社のツアー参加でしたが、限られた日数で現地の言葉ができないと個人で行くのは大変だと思いました。(ウズベキスタンへの直行便も週2便しかありませんでした)
また、私の参加したツアーは「ブハラでの民族舞踊ショー&夕食」の日以外は、毎日夕方早めにホテルに入れたのでゆっくりすることができました。
旅行時期は、人それぞれ、またどの季節もよさがあるとは思いますが、私は秋にしてよかったと思います。
冬は雪も降るほど寒いとのことです。
反対に夏は暑い、本当に暑いそうです。気温は40℃、いえ50℃近くまで上がるとも聞きました。
砂漠の移動もありますからこの暑さはかなり辛いものになるでしょう。
その上、バスの冷房があまり効かないのです。
4月・5月の本来なら“いい季節”でも、40℃近くなる日もあるとのことです。
私は9月下旬に行きましたが、日中は陽射しは強く暑いと感じましたが朝晩は涼しく湿度がなく乾燥しているので暑いわりには過ごしやすかったと思います。
もしも、また行くとしたら‥やっぱり真夏は避けると思います。
お金は、ウズベキスタンの通貨“スム”またはUS$が使えます。
日本ではスムは入手できないので、現地到着後に両替することになります。
ただ現地でも、日本円からスムへの両替は殆どできないので、日本からはUS$を持参しUS$からスムに替えるのがいいでしょう。
ツアー参加であれば、現地ガイドさんが両替してくれます。(2006.9.22、US$10=12200スムでした)
私はツアー参加だったので、あまりお金を使うこともなかったのですが、ホテルのチップが500スム位、トイレが200~300スム、観光地のカメラ代が1ヵ所につき1000~3000スム、壜ビール1本$3~5、ヒヴァのラクダがUS$3、日本へのAir Mailが1通180スム、などかかりました。
1000スムだとUS$1で払えるので(厳密にはちょっと損するが)、小額のUS$が重宝しました。
反対に高額のUS$はもたない方がいいと思います。
ホテルは、1泊目のタシケントは5☆のメリディアンで旅行中一番立派でした。
その他はそれぞれの都市ではいいホテルだったのですが、1泊目に比べると劣ります。
部屋のアメニティ・備品なども満足のいくものではありません。(殆どないと言っても過言ではない)
パジャマ・シャンプー・歯ブラシ・石鹸・ヘアードライヤーなどは持参した方がいいと思いました。
日中の陽射しは大変強いので、日焼け止めが必要だと思います。
また、大変乾燥しているので、ボディ用の乳液やクリームなどもあったほうがいいでしょう。
私もこの旅ほど肌の乾燥を感じたことはありませんでした。
とくに腕(半袖の服をきていたので出ていた部分)は、皮膚が固くなったようで元に戻るまでしばらくかかりました。
食べ物は、油が違う(現地では「コットンオイル」を使用)ので、やはり油に負けてしまう人が多いそうです。
コットンオイルを使った料理を食べる→暑いので冷たいものを飲む→お腹の調子が悪くなる
というのが一般的なようです。
行きの飛行機の中で、現地に住んでいる日本人の女性と隣の席になったのですが、食事の時もビールや冷たいものは飲まずに、「お茶」を飲むのがよいとアドバイスされました。
料理は基本的にロシア料理だと言われました。+西アジア・中国西域の料理(ラグメン・シシャリク等)かなというのが感想です。
野菜は美味しかったので、トマトやきゅうりなどはどんどんいただけます。
お肉は、牛肉もよくでましたが固く味もイマイチ、そしてイスラムの国なので羊肉もでますがちょっと臭いが気になりました。
食事が心配なかたは、日本食も持って行くと安心です。
いろいろ不便なことも多いウズベキスタンの旅行でしたが、それに勝る素晴らしい世界遺産、青い空、そして人々の笑顔がありました。
行ってよかったと思っています。
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June 07, 2007
ウズベキスタン航空527便にて帰国です。
定刻より30分遅れの21:45に離陸しました。
離陸して約45分後から(22:30)お飲み物のサービスがありました。
23:00にはお食事(写真)が、その後就寝となり、07:00(日本時間)には朝食のサービスがありました。
時差が4時間あるので実際に寝たのは3~4時間位で少し睡眠不足ぎみです。
9月29日(金)09:05、無事に成田空港に戻ってまいりました。
長かったような短かったような8日間でした。でも、とても充実した旅でした。
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June 06, 2007

18:00、『New Shanghai』という中華レストランに到着しました。
ウズベキスタンの料理にちょっと飽きてきたので中華は嬉しかったです。
(右)久しぶりに白いご飯を見ました(食べました)。
時間が早かったせいか、観光客専用なのか他にお客さんはいませんでした。

食事の途中で、現地ガイドさんよりちょっとしたプレゼントをいただきました。
“小さな陶器のお人形”と“シルクロードを旅した証明書”です。
証明書には、『キリル文字』でそれぞれの名前が書かれています。
いい記念になりました。
19:05、空港に向かって出発しました。長い旅もそろそろ終わりに近づいてきました。
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新市街の中心“ティムール広場”です。
現在ここには、新生ウズベキスタンのシンボルともいえるティムール像が建っています。
このティムール広場を砲弾型に取り囲んだ部分が町の中心部、密度の高い地域といえます。
昼食を食べた「ウズベキスタン・ホテル」は広場の目の前ですし、1日目に宿泊した「メリディアン・タシケント・パレス・ホテル」も徒歩10分位のようです。
17:50、全ての観光が終了しました。
次は、ウズベキスタンでの最後の食事、「中華料理の夕食」です。
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17:05民族友好広場に着きました。
左の写真、ピンボケしてしまいましたが『民族友好宮殿』です。
宮殿の右後ろに見える青いドーム型の屋根は、“アブドゥールハシム・メドレセ”だと思います。
さあここからウズベキスタンの地下鉄乗車体験です。
民族友好広場(ハルクラル・ドゥストゥリギ)からティムール広場(アミール・ティムール・ヒョボニ)まで3駅の移動です。
料金は均一で160スム、プラスティックのコインを買ってそれを改札機に入れて駅に入りました。
地下鉄内では写真撮影が禁止されているので、入口の写真のみになります。
駅の構内は、薄暗く、よくTVで見る北朝鮮の地下鉄の駅みたいだと思いました。
プラットホームも駅によってシャンデリアのようなものがあったりとまちまちでした。
17:25、ティムール広場に到着しました。
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16:45にバラク・ハーン・メドレセを出発し、民族友好広場へ向かいます。
途中、車窓から“クカルダシュ・メドレセ”を見ました。
かつての旧市街の中心地にあります。
当時タシケントを支配していたシャイバニ朝の大臣クカルダシュによって、16世紀に建てられた神学校です。
ソ連時代は倉庫などに使われていましたが、独立後修復され、再び神学校として活動しています。
特に金曜日は、入口前のテラスまで人があふれて、大きな礼拝が行われているそうです。
ロシア帝国に併合される以前、この周辺は「レギスタン」と呼ばれるタシケントの中心地でした。
ほかの町のレジスタン広場と同様に、罪人や不貞を犯した女性らがこのメドレセのミナレットから投げ落とされたといいます。
バスの窓から&逆光だったので写真があまりよく撮れていませんが‥。
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タシケントの旧市街の様子です。
(左)新市街から旧市街に入ったあたりです。
(右)バラク・ハーン・メドレセの近くにいた少女たちです。
制服がとてもかわいいのです。ワンピース+エプロン、なぜエプロンなのかわかりませんが、かわいいです。
現地のガイドさんによると、白いエプロンは夏に、黒や茶のエプロンは冬にするのだそうです。
この時期ちょうど夏服と冬服の境目だったようです。
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“ジュマ・モスク”です。
バラク・ハーン・メドレセの向かいにある16世紀に開かれたモスクです。
タシケントの金曜モスクと呼ばれています。
時間がなかったので、正面にまわることができなかったので、横からの写真しかありませんが、離れたところから中をのぞいてみたら、ちょうど礼拝の時間だったようで信者の男性でいっぱいでした。
この中庭北側には本庁に属する図書室があり、各国語に翻訳されたコーランや、世界最古のコーランといわれる7世紀のオスマン・クラーンのコピーが展示されているそうです。
ティムールがダマスカスから持ち帰ったもので、オリジナルは書庫に保管されているとのことです。
時間があったらじっくり見てみたかったです。
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June 05, 2007

ツム百貨店でのお買い物の後、旧市街の観光に行きました。
バスで20分弱で、“バラク・ハーン・メドレセ”に着きました。
16世紀シャイバニ朝のバラク・ハーンによって建てられた神学校です。
入口のアーチには、美しいモザイク模様とアラビア語の文様が描かれています。
このメドレセには、ソ連時代から中央アジアのイスラームの本庁がおかれています。
残念ながら、建物内部には入ることができませんでした。
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June 04, 2007

ナヴォイ劇場の後、“ツム百貨店”へ行きました。
ナヴォイ劇場からは道路を挟んですぐです。
15:00~16:00、1時間自由時間になりました。
百貨店と言っても、日本のデパートを想像すると大違いです。
一応百貨店なのでいろいろ売ってはいます。
が、特に欲しいものもなかったので、コンビニエンスストアのような小さな食品売り場をのぞいてみました。
店員さんは、ロシア人のような顔立ちです。
今までずっとアジア的な顔つきのウズベキスタン人のかたばかり見てきたので、ここで「やっぱり旧ソ連なんだな‥」と思った瞬間でもありました。
『BETA TEA』というお茶を買いました。
この旅行中、何度も飲んだのがこの『BETA TEA』でした。
緑茶・紅茶・フレーバーティいろいろ売っていましたが、レストランなどで出されたのは緑茶が多かったように思います。(日本の緑茶とは違う味)
場所によっては、砂糖を入れて飲んだところもありました。
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June 03, 2007
昼食は、“ウズベキスタン・ホテル”の17階のレストランでいただきました。
17階は最上階なのでしょうか、窓からの眺めがとてもいいです。
今まで訪れてきた都市ではこんな高い場所から町を見下ろしたことがなかったのですが、やはりタシケントは首都ですね。
道路も整備されています。
写真のほぼ左半分は「ティムール広場」のようです。


いただいたお料理です。
前菜・スープ・メイン、写真にはありませんがデザートもありました。
メインのお料理は、牛肉と野菜を炒めたもの(若干トマト味、油っぽい)でした。
夕食は中華料理なので、ウズベキスタン料理はこれが最後になりました。
14:35、食事を終え市内観光に出発しました。
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8:00にサマルカンドを出発してから約5時間半、13:25にタシケントのウズベキスタン・ホテルに到着しました。
ホテルのロビーでは、写真のお人形が迎えてくれました。
“中央アジアの首都”タシケントは、200万以上の人口を抱える大都会です。
中央アジアで唯一の地下鉄が走り、真っすぐ延びる道路にやたらと大きいビルが連なる、およそシルクロードの印象からはかけ離れた近代都市です。
オアシス都市としての歴史は長く、2000年前には「チャチ」という名で記録に現われています。
11世紀頃から「タシケント(石の町)」という名で呼ばれるようになりました。
シルクロードの中継点として最も栄えたのがこの頃でした。
モンゴル軍に破壊された後、ティムール帝国、シャイバニ朝時代になって町は復興します。
1809年にコーカンド・ハーン国の支配下に入った頃には、全長25kmの城壁に囲まれた人口10万の都市に成長していました。
しかし1865年に始まった帝政ロシアによる支配が、町の様相を一変させることになりました。
ロシア人の入植が続き、土塀が続く旧市街は、瞬く間に整然と区画された町並みに変わっていきました。
現在のアンホール運河を境に、東にはロシア人の町ができあがり、西のウズベク地域とは分割統治されました。
その境界も、1966年4月26日に町を真下から襲った大地震で、一挙に消え去ってしまいました。
ソ連各地から3万人以上の“革命的労働者”が投入され、わずか数年で町はまったく新しい近代都市に生まれ変わりました。
中心街を歩いている限り、現在のタシケントにシルクロードの風情を感じることはありません。
威圧的な警官に姿がやたらに目立ち、ソ連の匂いもいまだ強く残っています。
それでもタシケントは、現代中央アジアの交通の要衝です。
シルクロードを旅する際に、きっと避けては通れない町でしょう。
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June 02, 2007
May 31, 2007
サマルカンドでの最後の観光が終わりました。グリ・アミール廟からホテル(アフラシャブ・パレス)までは直線距離にして300m位のようですが、バスでの移動は10分弱かかり16:40に戻りました。
夕食は19:00ロビー集合、昨日と同じホテル内レストランでいただきます。夕食まで少し時間があります。
実は、日暮里の“ザクロ”で出会ったサマルカンド出身の青年の実家がこのホテルの近くだということだったので、ご家族にお会いできれば・一緒に写した写真を渡せれば‥と思い、昨晩電話をしてみました。といっても私は言葉がわからないのでホテル内のおみやげ屋のオーナー(ウズベク人)にかけていただきました。あいにく呼出音はするものの応答はありませんでした。お兄さんの携帯にもかけてみましたがこちらもつながらず‥。
明日はもうサマルカンドを離れてしまうので今夜しかありません。夕食後にもう一度かけていただいたら、なんと通じました。彼のお母さんがでたそうです。オーナーが手短に状況を説明してくれたら、ご両親がこれからホテルまで来てくれることになりました。
20:20ご両親が到着しました。日本で撮った写真や持ってきたお土産を渡して少し話をしました。と言っても私たちはウズベク語もロシア語もできないので『ナルさん』という別のツアーのガイドさんが通訳をしてくれました。
おみやげ屋のオーナーがてっきり私達はナルさんのお客さんだと思い、ナルさんと知り合いだったオーナーはナルさんを呼んでくれていたそうです。
そのうちにご両親から、「これから私たちの家にお茶を飲みに来ませんか?ウズベキスタンの一般家庭を見てみませんか?」と誘っていただきました。
ナルさんも一緒に行ってくれるというので、お言葉に甘えることにしました。
お父さんの運転する車にナルさんと私の知り合い2名が乗せてもらい、私はお母さんとタクシーに乗っていきました。(まさか、ウズベキスタンでタクシーに乗るとは‥これもいい経験でした)
10分位で着いたと思います。外からでも大きなお家だと思いました。この写真を見てもわかると思いますが、夕食は済ませていますと言ってもこんなにたくさんの食べ物をだしてくださいました。


立派なお宅です。ナルさんが聞いたところによると、お父さんは百貨店のオーナーだそうです。以前このお宅には日本人がホームステイしていたこともあるとのことでした。
また彼らの長男(日本に来ているのは次男)ももうすぐ日本に行く予定で、今朝ビザの申請をしてきたところだということでした。
約1時間でしたがウズベキスタンという遠い国で、一般家庭を訪問することができたなんて本当にいい経験でした。
帰りはお父さんの車でホテルまで送っていただきました。22:10ホテルに戻りましたが、興奮冷めやらぬ感じでなかなか眠れませんでした。
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May 30, 2007
レギスタン広場を16:00に出発、“グリ・アミール廟”へやってきました。バスで約5分です。
グリ・アミールとは、タジク語で“支配者の墓”という意味です。ティムールはじめ、彼の息子たちが眠る霊廟です。
青の都と呼ばれるサマルカンドでも、ひときわその青さが引き立っている壮大な建造物ではないでしょうか。
もともとこの場所には、彼の孫ムハンマド・スルタンが建てたメドレセとハナカがありました(中庭に基礎のみ残っています)。しかし1403年のトルコ遠征で彼は戦死してしまい、ティムールは彼を偲んで隣に廟を建設しました。
廟は1404年に完成しましたが、1年後、中国遠征の途上で急死したティムール自身もここに葬られることになりました。彼はかねてから生地のシャフリサーブスに葬られることを希望し、廟も造っていました。また死ぬ間際には「名を刻んだ石だけを墓標とするように」と遺言しましたが、権力者の悲しさか希望は両方とも実りませんでした。


廟内部は1996年に修復が終了し、建設当時の美しさを取り戻しています。内部を覆う文様には金3kgが使用されたと言います。
ティムールの墓は金黒緑色の軟玉で造られ、中央に置かれています。その北側にティムールの教師ミルサイード・ベリケと孫の一人、東側にムハンマド・スルタン、南側にウルグベク、西側に近いほうから息子のシャールフ、孫のひとり、息子のミランシャーの墓石が並んでいます。これらはみな墓の位置を印した墓石で、亡骸はこの地下3mのところにある墓室に同じ順序で葬られています。
1941年6月、ソ連の学術組織によってティムールらの墓が開けられ、ティムールの足が不自由だったこと、ウルグベクが断酒されて死んだ事などが証明されました。
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レギスタン広場の西側に1420年に建てられた神学校です。広場では最も古い建物です。
ウルグベクは自身が天文学者であったように、学芸を振興し、自らも教壇に立ったと言われています。当時ここには100名以上の学生が寄宿し、イスラーム神学をはじめ、数学や哲学などを学んでいました。中庭を囲む2階建てのフジュラに学生たちが住み、四隅はドーム天井の講義室となっていました。
35mの高さがある入口アーチには、建造者ウルグベク嗜好を反映して、青い星をモチーフにしたタイル模様が描かれています。まるでCGを先取りしたかのような、精巧なできばえに驚かされます。
アーチの両側のミナレットは、“空を支える”ためにあり、面白いことに北側のミナレットが少し傾いているのは、その重さのせいだと言われています。
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May 29, 2007



『ティラカリ・メドレセ』です。1660年に建てられた神学校です。広場から見て正面にあたるこのメドレセはほかの二つのメドレセとはかなり異なった外観で広場の安定した調和にひと役かっています。
中庭に入って左側、青のドームの下に礼拝所があり、その荘厳さから“ティラカリ(金箔された)”という名が採られています。当時すでにビビハニム・モスクが廃墟となっていたため、サマルカンドの主要礼拝所としても使われました。
修復に3Kgの金が使われたという礼拝所は、まさに息を飲む美しさです。ミフラブ(メッカの方向を示す壁面のくぼみ)と壁面は星と植物、アラビア文字をモチーフにした鮮やかな模様で飾られ、まばゆく輝いています。その技巧も素晴らしく、例えばドーム型に丸みを帯びて見える天井は実は平面で、細かい遠近法で描かれた結果です。
左:礼拝所の天井。実際にはもっと金色に輝いています。そして天井も丸く見えるので不思議です。写真だと上手くお伝えできないのが残念です。
真ん中の2枚:ミフラーブ(左)とミンバル(説教壇)(右)
右:中庭からみた礼拝所

メドレセの中庭です。木があって、花壇もあって、木陰にはベンチもあって市民の憩いの場になっているようです。
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May 28, 2007

『シェルドル・メドレセ』です。右は入口のアーチのアップ、ずっと見たかったんです。
かつてハナカがあった場所に建てられた神学校です。17年の歳月をかけて、1636年に完成しました。広場を挟んで向かいにあるウルグベク・メドレセを模倣して造られたと言われています。
このシェルドルとは、“ライオンが描かれた”という意味で、入口アーチに小鹿を追うライオン(虎に見えますが)が人面を帯びた日輪を背に描かれています。
本来イスラームの文様は、その教義に基づいて偶像崇拝を否定する立場をとり、人や動物の姿をモチーフにすることはタブーとされています。あえて禁が破られ、このようなデザインが描かれたのは、支配者が自分の権力を誇示しようとしたためのようです。しかし、その代償に建築家が責任を取って自殺したという伝説も残っています。


入口から入ると中庭を囲むように小部屋があります。以前はこれらのひとつひとつが、教室であり宿舎であったようです。
真ん中の写真は、民族楽器を演奏する“バブールさん”です。私たちが訪問した約1ヶ月前(2006年8月下旬)小泉総理もバブールさんの元を訪れたようでその時の写真がありました。
右の写真は、当時の神学校の先生の様子を再現したお人形です。
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レストランより約15分、14:15に『レギスタン広場』に到着しました。
レギスタン広場は、サマルカンドの旧市街の中心にあります。
広場から向かって正面は“ティラカリ・メドレセ”、右は“シェルドル・メドレセ”、左は“ウルグベク・メドレセ”です。
レギスタンとは“砂地”の意味です。チンギス・ハーンの来襲以後、アフラシャブの丘から移動したサマルカンドの商業の中心地となりました。公共の広場としての機能も果たし、謁見式や閲兵、罪人の処刑なども行われました。
ティムールの時代になると大きな屋根つきのバザールが造られ、孫のウルグベクの時代に最初のメドレセが建てられました。
当時は広場の西側にハナカ(イスラーム神秘主義教団の修行場)があり、北にはキャラバンサライ、南にはやはり荘厳なモスクがあったようです。広場が現在の外観を得たのは、後のシャイバニ朝の支配者、ヤラングトシュ・バハドールによって更にふたつのメドレセが建てられて以来のことです。
ソ連時代に修復が行われ、時代とともに堆積した土が2m以上も取り除かれたということです。
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May 27, 2007
シャブ・バザールからバスで15分、13:05昼食のためのレストランに到着しました。
この写真は、レストランの入口にぶら下がていた“魚”です。
ウズベキスタンに来てから魚を見たのは初めてだった(と思う)ので、こんな内陸でも魚をたべるんだ‥と思ったことを覚えています。
聞いてみたところこのお魚は『サザン』という名前の川魚で鯉の一種だそうです。

ショーウィンドウ?です。
ケバブと一口に言ってもお肉の種類もいろいろです。
牛・豚・鶏・羊‥。確かウズベキスタンでは牛肉が一番安いと聞きました。
私たちのお昼にでてくるのはどれでしょう?

今日のランチは、ボルシチと豚肉のケバブです。
想像していたものと違うボルシチでした。
キャベツ・じゃがいも・ビーツ・サワークリームが入っているので確かにボルシチですが‥。
豚肉のケバブはおいしかったです。この旅行で食べたものの中で一番だったと思います。
ウズベクの人々は、イスラム教徒が多いので豚肉のケバブは食べないのでしょうが、このケバブは塩コショウで味付けがしてあり美味しくいただきました。
14:05昼食を終えて、サマルカンド観光のハイライト『レギスタン広場』へ向かいます。
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【ビビハニム・モスクの言い伝え】
ティムールのインド遠征の凱旋にこたえて、妃ビビハニムはその功績に勝るとも劣らないモスクを贈ることにしました。
当代の著名な建築家を集め、建設は進められました。
しかしティムールの凱旋前に完成させることは難しく、妃は工事を急がせました。
そんなある日、密かに妃に恋焦がれていた建築家がとうとう押さえきれず、妃にたった一度の接吻を求めました。
「これ以上働けません。どうか私の悩みを解きほぐしてください」と乞いました。
妃の心は大きく揺らぎました。
ティムールを愛しているとはいえ、当代随一の美男建築家からの求愛でした。
妃は幾つかの卵に色をつけて、色は違うがどれも同じ味だ。夫の後宮にいるどの女性でも捧げるからあきらめてほしいと説得しました。
しかし建築家はふたつのコップを持ってきて、どちらも同じ色をしているが、一方には冷水が、またもう一方には心を惑わす酒が入っているのだとやり返しました。
妃は折れ、頬は建築家のもとに。そしてそのキスの跡があざになってしまいました。
こうしてモスクは完成しました。
サマルカンドに戻ったティムールは、このモスクのできばえに驚き、寵妃ビビハニムに一刻も早くお礼を述べようとしました。
ところが妃に会ってみると、頬にはキスの跡があるではありませんか。
忌まわしい事実のあったことを知った彼の復讐は恐ろしいものでした。
建築家は死刑、妃は彼への贈り物のミナレットより投げ捨てられました。
別の言い伝えでは、建築家はこの世の仕業とは思えないほどの壮大なモスクを建てた神通力をもって、ペルシャの空へ飛んでいったといいます。
妃はティムールの命により黒いベールで覆わねばならなくなりました。
そしてその誘惑的な容貌は二度と人々の目に触れなくなりました。
(左:ミナレット、右:ミフラブ)
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続いて向かったのは「ビビハニム・モスク」、バスで約10分で着きました。
かつてイスラーム世界で最大の規模を誇ったモスクの跡です。
サッカー場がすっぽり入ってしまうほどの敷地に大モスクとふたつの小モスクが並び、入口にはやはり巨大なアーチが建てられています。
大モスクは祭事用、小モスクは金曜の礼拝用と毎日の礼拝用だそうです。
このモスクにもさまざまな伝説に彩られ、また宿命的ともいえるような結末を迎えています。
1399年、インド遠征から帰ったティムールは世界に比べるものがない壮大なモスクを造る決意をしました。建設には帝国各地から集められた200人の職人と500人以上の労働者、そして95頭の象が従事し、ティムール自身が毎日現場に出向き、指示をする熱の入れようでした。その様子を見ていたスペイン公使によると、ティムールは籠の上から肉や貨幣を建設現場に投げ入れ、工事の進行を盛んにせかしていたといいます。その結果、モスクはティムールの死の1年前、1404年に異例の速さで完成しました。
しかし落成後間もないある日、礼拝中の信者の上にレンガが落ちてきました。落下は続き、それを恐れて礼拝を行う者もいなくなりました。以後崩壊が徐々に進んで廃墟となり、更にたび重なる地震で姿を留めないまでに崩れてしまいました。
崩壊の原因は建設を急ぎすぎたこと、そしてあまりにも巨大すぎたその構造にあったといいます。それはまるで、その後のティムール帝国自身の運命を暗示するかのようでした。
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May 26, 2007


シャーヒズィンダ廟群のまわりには墓地がありました。
廟群の中にいた時にどこかの廟の裏側にまわったら階段があったので何があるのかと上ってみたら墓地でした。
右の2枚はそこで撮りました。墓石に亡くなったかたのお顔が記されていて(書いてあるのか彫ってあるのかわかりませんが)日本の墓地より明るい感じがしました。
もう1枚は、シャーヒズィンダ廟群を出てから撮りました。
廟群は小高い丘にあってそのまわりが墓地になっているようでした。
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May 09, 2007


アフラシャブの丘からバスで10分、10:45「シャーヒズィンダ廟群」に到着しました。
アフラシャブの丘の南麓にあるサマルカンドの随一の聖地です。ティムールゆかりの人々の霊廟がほぼ一直線に建ち並ぶ、“死者の通り”で、今でも巡礼に訪れる人々が絶えない場所です。その装飾の多様さ、美しさで、中央アジアでも指折りの名所と言われています。
”シャーヒズィンダ”とは“生ける王”という意味で、7世紀のアラブの侵略時に生まれた伝説がもとになっています。
それによると、布教のためサマルカンドにやってきた預言者ムハンマドの従兄クサム・イブン・アッーバスは、ここで礼拝をしている最中に異教徒に襲われ、首をはねられてしまいました。ところが彼は動じることなく礼拝を終え、自分の首を抱えると深い井戸へと入っていきました。彼はそこで永遠の生命を得て、イスラムが危機に陥ったとき、救いに現われるのだといいます。
左の写真は、道路から写した廟群です。左端に写っているのが、ウルグベクが建てた入口の門です。
この門をくぐると階段があります。この階段「天国への階段」というそうです。
右の写真はその天国への階段の途中にある廟のところにいたイスラムの聖職者?です。
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サマルカンド歴史博物館の裏から「アフラシャブの丘」へ上りました。
10haの広さのこの丘、現在では生命感のない土の塊となっていますが、モンゴルによって徹底的に破壊される以前、何世紀もの間、サマルカンドの町はこの丘の上に営々と築かれてきました。発掘調査の結果、文化の痕跡が11層もの厚さで積み重なっているのが確認されています。
アフラシャブの名は、伝説の最初のソグド王から採られたものです。当時の町は城壁で囲まれ、4つの大きな門がありました。これらの門を通じて、サマルカンドはシルクロードと結ばれていました。
東西の多くの旅行者や学者が記録を残していますが、当時のサマルカンドは、道が舗装され、水道が各家庭に延び、緑にあふれた「人間が見たなかで最も美しい眺めのひとつ」を作り出していたといいます。大きな鉛管で引かれる大量の水が、それを可能にしていたのでした。モンゴル来襲のあと町がうち捨てられた理由は、生命線であったこの給水システムを破壊されたことにあるようです。
この丘の上に立ってみても、かつてはここに町があったということが信じられません‥。
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May 08, 2007
April 29, 2007


9月27日(水)6日目です。今日は終日サマルカンドの観光になります。
7:00起床、9:00ホテルを出発しました。まず向かったのは、「ウルグベク天文台跡」バスで15分程で着きました。
アフラシャブの丘から北東に約1㎞、チュパン・アタという丘の上にあります。長い間、ウルグベク(1394~1449)がどこで観測をしていたのかは謎とされてきましたが、1908年にロシア人のアマチュア考古学者ヴィヤトキンによって土に埋もれた天文台の跡が発掘され、その存在が明らかとなりました。
現在は、円い天文台の基礎と六分儀の地下部分のみが残っています。かつてこの六分儀は、地下の11mと合わせて40mの高さがあり、弧長は63mという巨大なものでした。これを高さ30m以上の建物が取り囲み、現在の天文台を彷彿とさせる観測施設が造られていたわけです。
ここでの観測をもとに、彼は恒星時1年間を365日10分8秒としました。今日の精密機器で計られたそれは365日6時間9分9.6秒で誤差は1分にも満ちません。望遠鏡もない当時の技術でいかにしてこのような正確な数値をわりだしたのでしょう。また1018の星の軌跡を記録した彼の天文表は、後にコンスタンチノープルに逃れた弟子によって出版され、ウルグベクの名を広く世界に知らしめました。
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April 28, 2007
いつからか“青の都サマルカンド”という言葉が頭の中を離れなくて、いつか行こうと思っていました。そのうちウズベキスタンのツアーパンフレットなどがよく目につくようになり、この写真のレギスタン広場に強い憧れを抱くようになりました。
そして、今回本当に来ることができました。
サマルカンドは、常にシルクロードの中心都市としての道を歩んできました。その存在が初めて世界に知らされたのは紀元前4世紀、アレクサンドロス大王の遠征軍が到達した時のことだそうです。大王をして「話に聞いていた通りに美しい、いやそれ以上に美しい」と言わせしめたほど、サマルカンドの前身「サラカンダ」の町は発展を見せていました。
その繁栄の担い手はソグド人でした。商才と工芸技術に長けたソグド人は、さまざまな王朝の支配を受けながらも、数世紀にわたって営々とサマルカンドを築き上げてきました。
しかし1220年のモンゴル軍の攻撃で、町の人口の4分の3以上が殺されるという壊滅的な被害を受けました。アフラシャブの丘にあった町は破壊し尽され、無人の荒地と化しました。
そのサマルカンドをよみがえらせたのがティムールでした。「チンギス・ハーンは破壊しティムールは建設した」といわれるように、彼は帝国各地から連れ帰った職人や建築家たちを使い、サマルカンドをイスラーム世界に名だたる都市に復興しました。彼が手がけた壮大な建築群は、それから600年を経た現在も圧倒的な迫力で旅人の目を釘付けにしています。
この写真は、私の携帯電話のカメラで撮りました。(auW32SA)
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April 25, 2007



夕食は、19:00にロビーに集合してホテル内のレストランでいただきました。
いつもと殆ど変化のないお料理が並んでいます。この頃になると少し飽きてきます。
ハム類・チーズ・パン・生野菜・果物・温かいお料理などなど‥。
野菜はホントに美味しかったのですが‥。トマトは毎食食べていました。
明日は、いよいよサマルカンドの観光です。今回の旅で一番行きたかったレギスタン広場にもとうとう!
夕食後、部屋に戻り、入浴、明日の準備などして23時頃におやすみなさい。
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April 23, 2007


15:20シャフリサーブスを出発しました。
サマルカンドまで約3時間半の道のりです。
2時間半ほど走った17:05、バスはサマルカンド州に入り休憩になりました。バスが停まると、子供たちが寄ってきました。手には小さなマットのようなものを持って「買って欲しい」と‥。
それから走ること約1時間、18:00にサマルカンドのホテルに着きました。
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April 07, 2007

ドルッサオダット建築群より徒歩で移動しました。
“瞑想の家”と呼ばれる、ティムールゆかりの建築群。中庭に入ると、右側に青いドームのコク・グンバス・モスク、それに向き合ってふたつの廟が並んでいます。通りからも輝いて見えるこのモスクは、ウルグベクによって1436年に建てられました。内部はフレスコが修復されています。
モスクの中のミフラブです。
世界中のイスラム教徒はサウジアラビアのメッカにあるカーバ神殿に向かって礼拝します。
ミフラブとは、カーバ神殿の方向を示すくぼみのことだそうです。
今回の旅行中、いろいろなモスクを訪れその殆ど(たぶん全て)でミフラブを見ました。
ふたつの廟のうち、右側奥にあるのがグンバズィ・サイーダン廟です。
ウルグベクが自分の子孫のために建てたもので、内部には4つの墓石が並んでいます。
左側のシャムスッディン・クラル廟には、ティムールの父とその指導者シャムスッディン・クラルが葬られています。
1374年にティムールによって建てられました。
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April 01, 2007

バスは10分で「アク・サライ宮殿跡」に着きました。
1380年に着工され、ティムールの死後の1405年まで建設が続けられた、たぶん彼が残した最も壮大な建造物です。現在はアーチの残骸だけが残っています。
アク・サライのアクは“白い・お金”という意味があるので『白い宮殿』という意味の宮殿ですが、実際は青と金のタイルで装飾された宮殿でした。現在のアーチの高さは38m、壊れる前は50m以上の高さがあったそうです。
このアーチ左側(東)の円柱の中ほどには、アラビア文字で「スルタン(皇帝)はアラーの影である」という意味のことが書かれています。しかし右側の円柱には「スルタンは影である」としか書かれていないらしいのです。もちろん“スルタン”はティムールのことです。言い伝えによれば、建築家はこの誤りのためアーチの上から投げ落とされたといいます。

別料金(2000スム又はUS$2)を払ってアーチに登りました。シャフリサーブスの町が一望できます。
この入口アーチから南に大理石が敷き詰められた中庭が広がり、宮殿そのものは現在ティムール像が建つあたりにあったらしいということです。宮殿には80の部屋、屋上にはプールがあったとも伝えられています。
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February 18, 2007

9月26日(火)5日目です。
今日はシャフリサーブスを経由していよいよサマルカンドへ向かいます。
6:30モーニングコール、8:00にホテルを出発しました。ブハラからシャフリサーブスまでは約4時間の道のり、途中は一昨日のような砂漠?を走りトイレは青空トイレでした。
2枚の写真はシャフリサーブスの町にだいぶ近づいてきたところです。左はバス停です。

12:20民家レストランに到着です。
メインは“肉じゃが”、その他はいつもと同じです。肉じゃがは日本のそれとは全く違う味です‥。
13:30シャフリサーブスの観光、まずアクサライ宮殿に向けて出発しました。
シャフリサーブス‥ティムールは1336年、この地方を治める豪族の家に生まれました。若きティムールはこの地を地盤に頭角を現し、“世界の支配者”への道を歩んでいきました。広大な帝国を築いた後も彼はこの故郷を忘れず、サマルカンドのものに決して引けを取らない壮大な建築群を次々と建設していきました。“緑の町”という意味の町の名は、この頃のオアシス都市としての豊かさを物語っています。
しかし16世紀後半に、嫉妬に駆られたブハラのアブドゥール・ハーンによって、ティムールの遺産のほとんどが破壊されてしまいました。
現在のシャフリサーブスに昔日の華やかさはありませんが、その静かなたたずまいには大いなる歴史が秘められています。
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February 04, 2007


メドレセの中庭をぐるりと取り囲んでいる部屋はみやげ屋になっています。
今夜は、この中庭でウズベク民族舞踊ショーを見ながらの夕食です。
ショーは写真のような民族衣装のショーと現代版ファッションショーのようなものが交互にでてきました。
現代版のほうが若干多かったような気がします。
途中、歌もありました。
食事は、メインはピーマンの肉詰めでそれ以外はいつもと同じようなものでした。
ショー・食事を終えて、20:00にホテルへ向けて出発することになりましたので、食後少しの時間自由時間になりました。メドレセ内のおみやげ屋などを少し見ました。
ホテルまではバスで約20分程の距離でした。20:20頃にホテルに戻りました。
その後は、入浴・荷物整理などして23:20頃に就寝☆
明日は、途中シャフリサーブスへ寄ってからサマルカンドへ向かいます。
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「ナディール・ディヴァンベキ・メドレセ」に着きました。18:30からメドレセの中庭で民族舞踊ショーを見ながらの夕食です。
1622年に、ナディール・ディヴァンベキによって建てられた神学校です。正面入口の色タイルの鮮やかな絵が目に飛び込んできます。
2羽の鳳凰が爪で白いシカをつかんで、太陽に向かって飛んでいる絵です。
サマルカンドのシェルドル・メドレセ(明後日に行く予定)と同様に、町中の話題になったことは容易に想像できます。偶像崇拝を否定するイスラームの教義に反するのです。
彼はこれをキャラバンサライとして建て始め、建設後に突然、「メドレセ」と宣言したといいます。
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ラビハウズとメドレセの間の公園に、ロバにまたがって手を挙げ、ふざけているような男性の像があります。
この男性「フッジャ・ナスレッディン」といいイスラーム神学者で、ユーモアに富んだ授業をして学生に好かれ、今でもブハラの人気者で、彼に関する逸話が今もたくさん残っているそうです。
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続いてちょっと歩いて「ラビハウズ」へ向かいました。
“ハウズ”とは池のことです。
ひとつの伝説があります。アブドゥールアジャス・ハーンの大臣ナディール・ディバンベキがここに大きな池を造りたいと思い、土地の持ち主のユダヤ女性に売ってくれるように頼みました。でも、きっぱりと断られてしまいました。そこでナディール・ディバンベキは、彼女の家の下に運河を通させました。運河の水が家を流し始めたので、彼女は家屋敷を手放さざるを得なかったそうです。それで、1620年にここに造られた池は、“力ずくのハウズ”と呼ばれていたそうです。広さは、46m×36mです。
大きな石できちんと造られた池の四隅は、水を汲んだり洗濯がしやすいように、段々で下りられるようになっています。周りには樹齢何百年にもなるような老木が茂り、人々に木陰を提供しています。
ハウズの周りは今も市民の憩いの場になっています。ハウズのまわりのチャイハナでは仕事を終えた皆さんが集っていました。
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February 01, 2007


3つ目のタキ、「タキ・サラファン」です。
マゴキ・アッタリ・モスクからゆっくり歩いて5分位です。3つのタキの中で一番お店も人も多かったような気がします。
ここにもハサミ工房がありました。真ん中の写真の下のほうに写っているちょっと大きめのはさみは右の写真の職人さんが作りました。1個$10→$9になりました。
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時間は18:00になりました。
3つ目のタキに行く前に、「マゴキ・アッタリ・モス」があります。
遠くからだと埋もれているように見えます。事実、埋もれていたのを1936年ロシアの考古学者シシュキンによって掘り出されたモスクです。
“マゴキ”は“穴の中”という意味で、周囲を5mくらい掘り下げ、周りの土をどけて、穴の中にすっぽり掘り出した状態になっています。
アラブに支配されるまでここはバザールで、ゾロアスター寺院もあったそうです。その後も焼失、破壊されては再建されていたようですが、この創建は10世紀に遡ることが確認されているそうです。
壁面は3層に分かれていて、このモスクのたどった歴史を物語っています。下の彫刻されたレンガの層、その上のアラベスク模様、そして一番新しい層に分かれています。破壊されてはその上に建てられた‥ということです。
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January 29, 2007

続いて「タキ・テルパクフルシャン」です。
左の写真は、タキの入口です。
右の写真は、タキの中です。こんな風になっています。
先ほどのタキにくらべて、お店も少なく静かでした。
16世紀当初のタキは専門店的要素が強く、珍しくて高価な宝石類の売買、いろいろな材質・模様の帽子類の売買、外貨や金の売買のために人々が各地から集まって来ました。
先ほどの“タキ・ザルガラン”は宝石商市場、この“タキ・テルパクフルシャン”は帽子市場、次の“タキ・サラファン”は両替屋だったようです。
このタキで出会ったかわいい子どもです。
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“タキ”と呼ばれる交差点バザールです。
大通りの交差点を丸屋根で覆ったバザールで、関所のような役割もあったそうです。
旧市街を南北に貫くハキカット通りの北から3つ並んでいます。
まず一番初めに訪れたのは、「タキ・ザルガラン」、規模としては3つの中で一番大きいそうです。

タキの中には今でもお店が並んでいます。
このタキにはアクセサリーを売る店が多かったように思います。
写真は、スパイスを売る少年とブハラ名物?の鳥の形のはさみです。この小さいはさみ、1個$12というのを5個で$45にしてくれました。
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January 28, 2007

続いてお隣の「絨毯屋さん」へ‥。
左の写真のように、店内で絨毯を織っている様子も見られました。
ウズベキスタンでは、“スザニ”と呼ばれる刺繍を施した布が有名です。壁掛けやベッドカバーなどさまざまな用途に使われます。布の素材も綿や絹などいろいろです。
右の写真は、私が購入したスザニです。絹だということで手触りが優しかったのと刺繍の色が気に入りました。
$120というのを$100で購入しましたが、一体幾ら位が適正な価格なのか‥わかりません。
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お土産やさんに2軒よりました。
1件目はお皿などを売っているお店。レストラン等で使われているようなお皿はいろいろなところで見かけましたが、写真のようなカラフルなお皿はブハラにしかないとのことでした。
左の写真は店頭で撮ったもの、右は私が購入した小皿です。
1枚$3と言われましたが、5枚で$10にディスカウントしてもらいました。
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続いて「ミル・アラブ・メドレセ」です。カラーン・モスクに面して建っています。
巨大なアーチの両脇にふたつの青いドームをもっているのがミル・アラブの神学校です。
青と白のモザイクタイルからなる植物文様と文字文様を組み合わせた装飾は、末期ティムール様式の典型的な例です。
多くの神学校のうち、ソ連時代に中央アジアで開校を認めれれていた数少ない神学校です。
現在も神学校として使われており、教育年数は7年で、試験で選ばれた学生はアラビア語、コーラン、イスラーム法などを住み込みで勉強しています。
このメドレセは、1536年にウバイドゥッラー・ハーンの資金で建てられました。
ハーンが3000人以上のペルシャ人奴隷を売って建設資金を作ったので、「このメドレセの土台はレンガと粘土ではなく、人々の涙と血と悲しみだ」と歴史家が記録しているそうです。
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次は「カラーン・ミナレット」です。カラーン・モスクとつながっています。
その名の通り大きいミナレットで、高さ46m、ブハラで最も高く町のどこからでも見えるブハラのシンボル的な存在です。
1127年にカラハーン朝のアルスラン・ハーンによって建てられたもので、ブハラの町の興亡を眺めてきた生き証人ともいえます。塔の基底部の直径は9m、土台部分が地下に10mもぐっています。塔は上に行くにしたがって細くなる円筒状で、塔身の壁面を14層の帯状に分けそれぞれレンガを異なる積み方で装飾しています。灯火用窓の下の1層だけに青タイルが使われ、非常に独創的です。灯火窓は16のアーチ型に開いています。
中には105段の螺旋階段があり、カラーン・モスク内から登ることができるそうですが、あいにく登れませんでした。
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15時30分、午後の観光が始まりました。
ホテルからバスで15分、「カラーン・モスク」へ到着です。ここからは最後のメドレセまで徒歩での移動になります。
現在の建物は1514年、シャイバニ朝の時代に建てられたものです。“カラーン”とはタジク語で“大きい”という意味でその名前が示すとおり非常に大きなモスクです。サマルカンドのビビハニム・モスクに匹敵します。
広さは1ヘクタール、1万人の信者が礼拝できました。ソ連時代には倉庫となっていましたが、独立後再び礼拝所として再開されました。
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January 08, 2007


ボロハウズ・モスクの見学を終えて、昼食のためホテルに戻りました。
昨夜の夕食と同じくホテル内レストラン「SHARQ」でいただきました。
メインは、牛肉のケバブと牛と羊の合挽きのケバブでした。やっぱり羊はちょっとクセが強いです。
午後の出発は15時30分、あと約2時間あります。この時間かなり陽射しが強いのでシェスタですね。
私も1時間強、ぐっすりお昼寝させていただきました。
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January 07, 2007


アルク城から道路を渡って、「ボロハウズ・モスク」へ行きました。
1718年に建てられたハーン専用のユニークなモスクです。祝いの日、ハーンはアルク城を出て、絨毯の上を歩いてここまで来たと言われています。
前面に彫刻されたクルミの柱が20本並んだテラス状の空間があり、軒の正面や天井は赤・緑などカラフルに塗り上げられています。ブハラではほかには見られない“アイヴァン”という建築様式です。
モスクの前にハウズと呼ばれる池があり、四方は大きな石の段々で囲まれ、彫刻された大理石の給水口があります。
また祈りを呼びかける16世紀に造られた低いミナレットもあります。
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次に向かったのは「アルク城」、バスで5分程の距離です。
この城のあたりが古代ブハラ発祥の地で、2000年以上前に遡るといわれていますが、最初の城砦がいつ築かれたのかは定かではないそうです。7世紀に女王フッタ・ハウトンがこの城でアラブと戦い、モンゴル来襲の際には立てこもった多くの町民がチンギス・ハーンの軍隊に虐殺され、城も破壊されましたが、後に立て直されました。
その後も再三外敵に破壊されては立て直すことを繰り返しました。今、残っている城は18世紀のもので、1920年にロシア軍に攻略されて滅亡するまで、歴代ブハラ・ハーンの居城でした。
歴代のハーンは残虐な圧政の化身で、反抗した人を容赦なく虐殺したといいます。ブハラで一番多くの流血を見てきたところともいえます。
城門はレギスタン広場に面しており、坂を少し上がった所にあります。門を入ると暗い道が始まり、両側には囚人の地下室があり、今は人形などが置かれていて不気味です。
場内には、ジュマ・モスク、王座の間、ハーンの居室などがあります。
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「イスマイール・サーマーニ廟」から「チャシュマ・アイヨブ」にかけての一帯は、「サーマーニ公園」となっています。
写真のような子どもの遊園地もありました。道端にはコスモスが咲いていました。
楽しく歓談しているおじさん達がいたので一緒に写真を撮らせていただきました。
昼間から楽しそうでした‥でもいいの?ラマダンなのに?
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続いて徒歩で、「チャシュマ・アイヨブ」へ行きました。
チャシュマは“泉”、アイヨブは旧約聖書に出てくる預言者ヨブのことで、“ヨブの泉”という名前です。
人々が水不足で苦しんでいた時、ヨブがここを杖で叩いたら泉が湧き出てきたという説によるそうです。
昔、この泉は眼病に効くといわれ大勢の人が遠くからやって来たそうです。
今でも中に泉があり、水がこんこんと湧き出しています。
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次は、「イスマイール・サマーニ廟」です。最初の宮殿からはバスで20分の距離です。
イスラーム初期の建築様式の霊廟で、892年から943年にかけて造られた中央アジアに現存する最古のイスラーム建築だそうです。
9世紀の終わりにブハラを占領して都としたサーマーン朝のイスマイール・サーマーニが父親のために建てた霊廟ですが、後になって彼も、彼の孫も葬られてサーマーン朝の王族の霊廟となりました。
大きさは9m四方で、壁の厚さ1.8m、日干しレンガを積み上げ、半球ドーム型の屋根の単純な構造ですが、垂直ではなく内転び(鉛直方向に対して内側に傾いたつくり)をもつ外壁など、注目すべき要素が多くあります。
壁面を日干しレンガだけでさまざまな模様に積み上げているのも大変見事です。
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9時にホテルを出発しブハラの観光が始まりました。
ガイドさんによると、ブハラはタジク人が多いそうです。
まず初めに向かったのは、スィトライ・マヒ・ホサ宮殿です。ブハラの町から北に約4㎞、バスは20分ほどで到着です。
『月と星の宮殿』という美しい名前をもった夏の宮殿で、1911年に完成しました。外観は西洋風、内装は主に東洋風と東西の様式が混在した宮殿となっています。
左の写真は宮殿の入口、真ん中は宮殿の中庭、右はハーレムとプールです。
ハーレムの建物は現在はスザニの博物館になっています。
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December 10, 2006



夕食です。18:30にロビーに集合しました。
ホテル敷地内のレストラン『SHARQ』へ向かいました。
一番左の写真は、春雨のサラダやポテトサラダなど、奥に見える楕円形のお皿にはクリームチーズのようなサワークリームのような、ナンにつけて食べました。
左から二番目は、ナンですが、ここのナンはふっくらしていておいしかったです。
次はスープで、餃子のスープになります。餃子の中身は羊肉でしたのでちょっと臭みが‥。
この餃子は現地ではポピュラーなようで、最終日にタシケントのツム百貨店のスーパーで冷凍のものを売っているのを見ました。
一番右は、メインのお料理で、“カツレツ”とのことでした。
肉はひき肉でちょっと油っぽかったです。ライスとマッシュポテト・スライスしたタマネギが添えられていました。
食後、ホテル内のお土産物屋をのぞいてきれいな色のストールを一枚購入しました。
$25というのを$20にディスカウントしてもらいました。高かったのか安かったのか‥。
色が気に入ったのと手触りがよかったので(素材はシルク&ウールとのこと)値段はどちらでもよかったのですが。
部屋に戻り、入浴したら(明日も連泊なので荷物整理の必要なし)のんびりした気分になったので、また絵葉書を書いたりして、23:20頃にベッドに入りました。
明日は、終日ブハラの観光になります。
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15:30、今夜の宿泊地である『ブハラ・パレス・ホテル』へ到着しました。
今朝の出発が8時でしたから、ちょうど7時間半かかったのですね。
私の部屋は、602号室。昨夜のホテルに比べると部屋も広く、一人利用なのにツインのお部屋でした。

バスルームのアメニティは、タオル類・石鹸・リンスインシャンプー(1回分)のみで、ドライヤーはありません。
バスタブは有り、シャワーも可動式なので便利でした。
このホテル、お湯の出が悪いと聞いていたのですが私の部屋は大丈夫でした。
部屋にはバルコニーがついていてなかなかいい眺めです。
この後は、夕食の集合が18:00まで何もないのでホテルのマッサージをお願いしました。
30分で$10(マッサージ代$8+チップ$2)でした。
VERAさんという女性のマッサージ師のかたが部屋まで来てくれました。
Jhonson&Jhonsonのベビーオイルを使用していました。
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December 09, 2006

9月24日(日)3日目です。6:30モーニングコール、8:00ホテル出発、いよいよ今日はキジルクム砂漠の大移動です。
ウルゲンチからブハラまでは、約480㎞、時間にして7時間半~8時間の道のりです。
出発から約2時間、アムダリヤ川が見えるところでトイレ休憩になりました。左の写真はこの休憩時に撮りました。
右の写真は休憩になる前にバスの車窓から撮ったものですが、川の向こう側には電車も走っていました。

トイレ休憩から走ること2時間余り、昼食のためにバスはチャイハナに停まりました。
ガイドさん曰く、「名前もない、電話もないチャイハナで予約もできないので早い者勝ちです。私たちはここを“キジルクム砂漠の2番目のチャハナ”と呼んでいます。」とのことでした。
旅行会社の日程表によると、『昼食はお弁当になります』ということでしたが、ここウズベキスタンでは日本のようなお弁当があるはずもなく、トマトやパンなどは持参し、このチャイナではラグマンとお茶を提供していただきました。
“ラグマン”‥中央アジア風トマトスープうどんと言うのが一番近いかなと思います。日本のうどんと同じような麺に肉、にんじん、じゃがいも等の野菜が入っています。

13:30、バスは再びブハラへ向けて出発しました。
左の写真のような砂漠の中の一本道を走ります。想像していた“砂漠”とはちょっと違いました。砂が少し白く見えるのは塩分が含まれているためだそうです。
昼食後からのトイレ休憩は、右の写真のようなところで‥。
皆さんブッシュの陰に散っていきました。
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November 08, 2006
16:00にヒヴァ・イチャンカラの西門で集合し、ウルゲンチへ戻りました。
バスで約30分。ホテル着後、夕食は19:00にロビー集合になりました。
2時間半位時間があったので、シャワーを浴びて(バスタブのないお部屋だったので)さっぱりしました。
夕食は、宿泊したホレズムパレスホテルの2階のレストランにてビュッフェでした。



一番左は、主に前菜とサラダです。ウズベキスタンは農業も盛んだそうで、野菜はおいしかったです。
左から二番目は、ナンとパンです。パンはパサパサしていました、ナンはここのように切ってあるところ、円形のものがそのままのところ両方ありました。味もお店毎に少しづつ違っていました。
左から三番目は、温かいお料理‥ピーマンの肉詰めやじゃがいもとお肉を煮込んだものなど。
一番右は、チーズとハムです。
夕食後は部屋へ戻り、ゆっくりくつろぎながら絵はがきを書いたり、荷物整理をして22:00過ぎに就寝しました。
明日は、いよいよ?キジルクム砂漠を大移動!です。人生初の青空トイレも経験予定‥。
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November 07, 2006


1830年から1838年に、東門の近くに、アラクリ・ハーンによってクフナ・アルクに匹敵するものとして建てられた宮殿で、ヒヴァの中でも最も豪華なタイルや装飾インテリアで飾られています。公務を行う謁見や儀式の場、宴会やお客を接待する場、ハーレムの場に分かれています。
右の2枚は、天井のカラフルな幾何学模様です。
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ヒヴァの最後のハーン、イスフェンディヤル・ハーンの大臣イスラーム・フッジャによって、1910年に建てられたので、ヒヴァで最も新しいものだともいえます。
イスラーム・ファッジャは非常に進歩的な大臣で、ロシアをたびたび訪れ、得た知識を時刻の発展に役立てようとしてヨーロッパ形式の学校を開いたり、病院、郵便局なども開き、橋や道を造って近代化しました。非常に人気が出たため、ハーンと僧侶たちの陰謀で殺害され生き埋めにされたそうです。
メドレセはタイルで飾られた正面入口がありますが、対称ではありません。中庭も大きくなく、囲んでいる1階に42の部屋があるだけだそうです。2階があるのは入口の部分だけです。広さは43×32.5m、中庭は23×20mです。
ミナレットはヒヴァで一番高く45m、基底部の直径は9.5mですが、色タイルの模様のつけ方のためか、実際よりも高く見えます。118段の階段があり登ることができます。
このミナレットは、見張りの塔でもあり、また処刑場でもあったそうです。
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November 06, 2006
続いて、「パフラヴァン・マフムド廟」です。
ヒヴァの大臣であり、ヒヴァの庇護者として尊敬されていた詩人で哲学者のパフラヴァン・マフムド(1247~1326)の墓を中心に、14世紀から20世紀にできたムハンマド・ラヒム・ハーンやハーンの親族の廟があり、今では合同の墓となっています。
かまぼこのような形をしたものがそうですが、これらの墓は、メッカに向けて埋葬されているそうです。
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October 23, 2006
午後の観光が始まりました。
といっても、既に午後2時。陽射しがかなり強いです。
「ジュマ・モスク」です。多柱式建築のモスクで、中央アジアで最も有名なモスクのひとつです。
10世紀に建てられましたが、修復工事を重ねて、今の形になったのは18世紀末頃、約3m間隔で212本の柱があります。
柱には一本一本異なる彫刻が施されており、最も古い柱は昔のホレズムの都から運ばれたものだそうです。
4本が10~11世紀、25本が17世紀までの柱だそうです。
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お待ちかねのランチです。
朝が早かったので(おまけにたいしたもの食べてないし‥)お腹すきました。
ガイドさんより、「お昼は民家のレストランです」との案内がありました。
本当に民家なの?と思いましたが、まあこんなものでしょう。
写真左は、『ナン』これからの旅行中、毎回といっていいほど登場します。
写真中は、これもお決まり?で似たようなものがいつもでました。レーズン・杏の種・落花生など。そして、ナンにつけるジャム。
写真右は、メインのお料理『牛肉のプロフ』です。プロフとは、油で炒めた野菜・肉などをお米と一緒に炊き上げたピラフのようなものです。
この他にも、スープや野菜(トマト・きゅうり)・果物などがでました。
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October 22, 2006
続いて、「クフナ・アルク」へ向かいます。
17世紀に建てられた“古い宮殿”という意味のハーンの宮殿で、タシュ・ハウリ宮殿(新宮殿)ができてから区別するためにこう呼ばれるようになりました。
要塞で囲まれていて、公邸、くつろぎの間、モスク、ハーレム、牢獄、造幣所もあったそうです。
入り口前の広場(レギスタン広場)では、たくさんの女性たちが音楽に合わせて踊りの練習をしていました。
何かの1000年の記念の踊りだとか‥。


クフナ・アルク内の「アクシェイフ・ババ」の見張り台からはヒヴァの全景が見渡せます。
見張り台に上るには、別料金で1000スム又は1ドルですが、それだけの価値はあります!
眺めは抜群、とてもきれいでした。
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西門を入ってすぐ右側にあります。
ムハンマド・アミン・ハーンが建設を命じ、1852年に完成しました。中央アジアで最も大きな規模の神学校でした。中庭を取り囲む2階建ての建物は、1階は住居として、2階は教室として使われていたそうです。
現在では、ホテルとして利用されています。
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西門を入ってすぐに目に付くのが、この「カルタ・ミナル」です。青いタイルが美しい未完成の大ミナレットです。
カルタとは“短い”という意味だそうで、基礎部の直径は14.2mあるので、70~80mの高さになったであろうが、26mで工事が中断したまま‥現在に至っています。
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10時30分にホテルを出発、約40分でヒヴァに着きました。途中、トローリーバスも見かけましたが、これだと約1時間かかるそうです。ちなみに料金は均一で160スムだとのこと。
ヒヴァの町はふたつの城壁で囲まれていて、私たちが観光するのは内城「イチャン・カラ」です。
高さ約8m、厚さ約6m、長さ2100mの城壁に囲まれた町です。
西門(アタ・ダルヴァサ門)から、イチャン・カラに入りました。
いよいよウズベキスタンの観光が始まります‥。
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October 09, 2006

9月23日(土)2日目です。4:15モーニングコール、5:30にホテルを出発しました。
HY1051、タシケント7:00発にてウルゲンチへ。1時間ちょっとで着きました。
びっくりしたのはここの国内線は自由席なのです。搭乗券には座席番号の記載がありますが、乗務員もfree seatと言っていました。知らない人はびっくりですね。

空港からまず今夜のホテル『ホレズム・パレス』へ行きました。バスで5分位で着きました。
この時まだ9時です、少し休憩してから『ヒヴァ』へ向かうこととなりました。
ホテルは2階建て、部屋はこじんまりとしていちょっと狭いですが、ドライヤーはありました。
シングルルームはシャワーのみ(ツインはバスタブ有)でした。
私の部屋は、1階の145号室でした。

出発までの間、ホテルの近くを散策しました。
ホテルの前のアル・ベルニ通りを渡ってみると小学校?がありましたが子供の姿は見えませんでした。
遊歩道のようなものもあり、釣りをしている人もいました。一体、何が釣れるのでしょう?
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October 08, 2006

タシケント空港では入国審査(今回は団体ビザ)、荷物受け取り、そして税関となります。結構時間がかかると聞いていたのですが、1時間ちょっとで外にでた私たちを現地のガイドさんは「早い」とびっくりしていました。3~4時間かかることもあるそうです。
初日の宿泊は、タシケントパレスホテル。空港から約30分の距離です。
ホテルに向かうバスの車内でガイドさんに両替をしてもらいました。
ウズベキスタンの通貨は『スム』ですが、US$も使える事が多いそうです。(日本円は×)
US$10が12200スムになりました。10スムが約1円という感じでしょうか。
デラックスホテルということで、今回の旅行中一番よいホテルでした。
542号室が今夜のお部屋。ドライヤーあり、バスタブあり、無料のミネラルウォーターありで部屋もきれいでした。
TVはNHKが見られると聞いていたのですが見られませんでしたので、BBC WORLDを見ていました。
今夜は夕食がついていないので、日本から持ってきたパンと成田で買ったおにぎりを食べました。
あんまりお腹も空いていなかったのでこれくらいでちょうどいいようでした。
長い一日が終わり、22:30就寝。おやすみなさい。
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October 07, 2006
September 30, 2006
9月22日~29日まで6泊8日でウズベキスタンに行ってきました。
ウズベキスタン航空528便にて成田から関空経由で首都タシケントへ。
10:15成田発でタシケントには17:15に到着します。
初日はタシケント泊、2日目から本格的に観光が始まりました。
朝7:00発の飛行機でウルゲンチへ、着後ホテルにてしばし休憩の後「ヒヴァ」へ、ウルゲンチ泊。
3日目は、中央アジア最大のキジルクム砂漠を約500㎞「ブハラ」まで大移動、ブハラ泊。
4日目は、終日ブハラ観光、ブハラ泊。
5日目は、ブハラから一路「シャフリサーブス」へ、観光後「サマルカンド」へ、サマルカンド泊。
6日目は、終日“青の都”サマルカンド観光、サマルカンド泊。
7日目は、首都「タシケント」へ、午後市内観光をしちょっと早めの夕食後、HY527タシケント21:15発にて成田へ。
写真は、サマルカンドのレギスタン広場、今回一番行きたかったところです。
旅行記はこれから少しずつ書いていこうと思っています。
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September 09, 2006

日暮里にあるZAKURO(ザクロ)に行ってきました。
ペルシャ・トルコ料理レストランと書いてありますが、ウズベキスタン料理も食べられるということでした。
22日からウズベキスタンに行くのでその予行演習を兼ねて‥。
ビルの2階、外階段を上がり入り口で靴を脱ぐと一面ペルシャじゅうたんが敷き詰められ、壁にもじゅうたんが‥。
店内にはイランの音楽・TV?が流れアラビアンの世界です。



『しあわせランチ』料理5品以上+ピクルス、ナン・ごはんはおかわり自由で1000円です。一体何品でたのやら‥食べきれませんでした。
写真左は「ナン・ご飯」、左から二番目はカレー3種とサラダ(カレーは手前が肉・右奥がツナ・左奥が野菜)、右から二番目は一見デザートのように見えますが実はサラダの一種だそうで食感はジャガイモのようでマヨネーズ風のドレッシングがかかっていました。一番左はトルコ風ラザニア、右端に写っているのはナスのカレーです。


左はクレープのようなものでした。少し甘みがありました。
真ん中はカバブ3種(手前から牛肉と羊肉の合挽き・鶏肉・牛肉)。しあわせランチにはカバブは入っていなかったのでこれだけ別注文しました。合挽肉は羊肉の苦手な方には少し臭いかもしれませんが、3種類とも肉はさっぱりしていて美味しかったです。
右はイチジクのシャーベット、デザートです。
写真を撮り忘れましたが、他にもピーマンの肉詰めのようなお料理・チキン丸ごと1羽ローストしたもの(アスルタミオ?)中にはお米・野菜・豆などがぎっしり詰まっています、イチジクのケーキ等本当に食べ切れませんでした。
イラン出身の店長、そしてウズベキスタン出身のスタッフと異国情緒豊かなお店でした。
サマルカンド出身のスタッフの一人と話をしたのですが、来日して半年のこの青年、とても美しい日本語を話します。日本語は日本に来る前勉強したのだそうです。
サマルカンドの彼の実家の連絡先&お兄さんの連絡先を教えてもらったので、一緒に写した写真を渡したいと思っています。
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