春節の北京から帰国
1月30日(月)、JL780便(08:25発)にて帰国です。
6:10にホテルを出発なので、4:15に目覚ましをかけました。
比較的空港に近い(30分)ホテルでしたのでまだよかったと思います。
約2時間45分のフライトで成田に到着しました。
3泊4日、出発も夕方、帰国も早朝だったので短い日程でしたが楽しめました。
1月30日(月)、JL780便(08:25発)にて帰国です。
6:10にホテルを出発なので、4:15に目覚ましをかけました。
比較的空港に近い(30分)ホテルでしたのでまだよかったと思います。
約2時間45分のフライトで成田に到着しました。
3泊4日、出発も夕方、帰国も早朝だったので短い日程でしたが楽しめました。
せっかくの北京王府井なので、おいしいお茶を飲みたいと思いました。
王府井大街に面している『呉裕泰』というお店を見つけました。
建物もきれいだし、1階はショップになっているようですが店内もきれいなのでここなら間違いないだろうと思い入ってみました。
昨日ツアー途中にお茶屋さんに1件行ったことは行ったのですが、やはりツアーで連れて行かれるお茶屋さんはイマイチでした。
2階が茶館になっています。
2階に上がってみてびっくりです。とてもおしゃれな店内なのです。
お茶の値段も全体的にちょっと高めでした。
ひとつの茶葉で数人でシェアできるので、『精品鉄観音』というお茶を頼みました。
180元(日本円で約2700円)もします。3人だったのでいいよね、ということで‥。
日本で一人900円だとそんなに驚かない金額ですが、こちらではお昼が一人10元で食べられることもあり金銭感覚が狂ってしまいそうです。
お茶、おいしかったですよ、とっても。
ホッとくつろいだひとときでした。
今回宿泊した『華潤飯店』は、朝陽区にあります。第四環状線の近くにあります。第三環状線までが中心部と言われているのでちょっと中心部から離れていますが、空港からは30分弱と遅く着いて早く帰る今回のような旅行には便利でした。
地下鉄の駅からも500m、徒歩約7分位ですので苦になりませんでした。
タクシーでは、王府井まで24元だったそうです。
ホテルは23階建で最上階にはレストランがありました。宿泊した部屋は17階の1706室、右の2枚の写真は部屋から撮った物ですが北京市中心部に面していたようです。
部屋は広々としていて使いやすかったです。TVのチャンネルは70近くありました。が、残念なことにNHKはありませんでした。
明・代の皇帝が天に五穀豊穣を祈った場所です。
明代1420年の創建で、総面積273㎡、現存する中国最大の祭祀建造物です。
『祈念殿』は大変有名ですが、あいにく工事中のため今回は見ることができませんでした。
圜丘(写真左)‥石造りの三層の段で、建物はありません。ここは皇帝が神に直接祈る場所で、真の天壇と言えるのかもしれません。明・清代には毎年冬至の日に、斎宮で身を清めた皇帝がこの圜丘でその年に起きた重要な出来事を天帝に報告しました。最上壇の中心点の上で小声でしゃべると、その人には自分の声が反響してはっきりと聞こえるそうです。古代中国において9は皇帝の数字であり、各層の欄干、階段の数はすべて9の倍数となっています。
皇穹宇(写真右)‥高さ19.5m、直径15.5m、青い屋根の円錐形の木造建築で、祭祀の際、ここに皇帝の先祖の位牌を置きました。
回音壁という灰色の円形の壁で囲まれており、この内壁は音が反響するので有名です。壁の左右に分かれて小声で壁にささやくと180度反対の所にその声が伝わるそうですが、現在では柵に覆われて、残念ながら一部でしか試せません。
天壇には午後4時頃迄いましたが、気温は2℃でした。
珍妃井‥清代末、光緒帝の愛妾珍妃は、清の改革運動である変法自強運動を支持したことから西太后の恨みをかい、光緒24年(1898年)、戊戌の新政の失敗後、景祺閣背後の小院内に幽閉されました。
1900年の義和団事件の際、8ヶ月連合軍が北京に侵入した混乱の最中、楽寿堂を出た西太后は、景祺閣裏に現れると軒下に座り、珍妃を連行するように命じました。
そして現れた珍妃に、西洋人からの陵辱を免れるため、井戸に飛び込み自殺するように命じました。
嫌がる珍妃を無理やり井戸に投げ込み、まだ25歳の彼女を殺してしまったのです。
1年後、珍妃の遺体が引き揚げられ、井戸の北の小屋の中に霊牌が建てられ、この小屋は懐遠堂と名づけられました。
後にこの井戸は“珍妃井”と呼ばれるようになりました。
九龍壁‥皇極門の南対面にある長さ29.4m、高さ3.5mの巨大な瑠璃装飾の壁です。9匹の龍が宝珠と戯れる様が描かれています。北海公園の九龍壁、山西省大同のの九龍壁と合わせて中国三大九龍壁と呼ばれ、ここの九龍壁は大きさは最少ですが、すっきりとした龍の彫刻は見事です。
“九”は最大の陽数、“五”は中央の陽数であることから、“九、五”は皇帝の尊さを代表すると考えられています。九龍壁の壁面は270個の瑠璃片でできていますが、この数も“九”と“五”の倍数です。
東側から3番目の白龍の腹部には、彫った木片がはめ込まれています。これは製作時に不注意で、この部分の瑠璃片を割ってしまったため、処罰をおそれた職人達が彫刻した木片をうまく塗装して乾隆帝の眼をごまかしたものが、年月を経て塗装が剥げたと言われています。
太和門(写真左)‥明代永楽18年(1420年)創建で、当初奉天門と呼ばれましたが、嘉靖41年(1562年)、皇極門と改称、そして清代初年に現代の太和門と呼ばれるようになりました。
明代の文武官達は、毎朝明け方に太和門に集まって皇帝を待ち、皇帝は大臣達の朝拝を受け、政務を処理しました。このことから「御門聴誠」なる言葉が生まれましたが、清代初めには「御門聴政」の場所は乾清門へ移りました。
この朝礼に遅れたり倒れたりすると処罰され、午門の前で「廷杖」されました。また、冬の寒さのためここで凍死した人もいたと言われています。
太和殿(写真右)‥あいにく工事中でした。明代永楽18年(1420年)の創建で、金鑾殿とも呼ばれます。初めは奉天殿と言いましたが、嘉靖41年(1562年)皇極殿と改称し、清代順治2年(1645年)現在の名称に改められました。現存する建物は、清代康煕34年(1695年)に再建されたものです。
故宮の「三大殿」の中でも最も重要な建物で、現存する中国最大の木造建築でもあります。明代清代には皇帝の重要な儀式は全てここで執り行われました。
午門‥故宮の正面入口で、子牛の方向にあることから“午門”とよばれています。明の永楽18年(1420年)の創建ですが、明代嘉靖、万暦年間に2回の火災に遭い、天啓7年(1627年)に修復され、その後、清代順治4年(1647年)に改修されました。
正面中央の門は皇帝専用で、皇帝の出入時以外は閉じられていたそうです。正面左右の脇門は、普段は文武官や王侯貴族などの専用門でした。東脇門は文武官、西脇門は王侯貴族が出入りしました。
午門前の広場は、明代には役人の「廷杖」という処罰が行われた場所でもありました。当時、杖で打たれた役人の数は非常に多く、死者も珍しくなかったそうです。
左は正面からの午門、右は裏(大和門)からの午門です。
2日目です。市内観光が始まりました。8:00にホテルを出発し北京市内へと向かいます。
天安門広場‥総面積40万㎡の世界で最も広い広場のひとつで、50万人を収容できる大集会場にもなります。1964年6月4日未明に起こった“天安門事件”はまだ記憶に新しいところです。
前に来たときよりも人が少ないような気がします。中国人観光客の姿があまり見えません。
右の写真は、左から“毛主席紀念堂”・“人民英雄紀念碑”・“人民大会堂”となります。
毛主席紀念堂‥1976年毛主席の死去に伴って作られました。中には、水晶で作られた棺の中に毛主席の遺体が安置されています。
人民英雄紀念碑‥天安門広場の中心にそびえる高さ38mのオベリスクで、石は青島産。新中国成立のために戦い、殉死した人々を追悼する記念碑で、1958年4月に完成しました。
人民大会堂‥天安門広場の西側にある会議場で、日本の国会議事堂にあたります。1959年9月に落成、南北336m、東西336m、高さ46.5m、正面南北にわたって18本の大円柱が並びます。内部には1万人を収容できる「万人礼堂」(会議室のこと)があり、ここでは全人代(全国人民代表大会)をはじめ党や政府の重要な会議が開かれます。
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